誰かに話を聴いて欲しいとき、私達は聴き手に何を期待するでしょうか?まずは「わかってほしい」と期待するのではないでしょうか?
わかってほしいこと、それは「きもち」です。その出来事によって自分が体験したきもちを共に感じてほしい。事実関係の確認や現状把握、打開改善のアドバイスもありがたいけれど、まずは「共感してほしい」と願います。
しかし聴く側にしてみれば、辛そうな表情や聴かされる内容に穏やかならぬものを感じ、「どうにかしてあげなければ!」が先立ってしまいがちです。親身になればなるほど、解決志向に走りがちです。
それがかえって逆効果になり、話し手の貴重な成長の機会を奪ってしまい、後悔しきり…ということもよくある話です。では、どうしたら良いのでしょうか?
ただ、ありのままを聴く
まずは、話し手の体験をありのままに聴くことです。その出来事(外的体験)だけでなく、その出来事(外的体験)によって話し手がどんな体験(内的体験)をしたのかを、ただ聴きます。何らの判断も評価もせずに。
もちろん、ただ聴きながらも、聴き手の脳裏には様々な思いが浮かび、ただ聴くだけじゃいけないのでは…とあせりもします。そうした自分の思いを認めながらも、いったんそれを脇に置き、判断も評価もせず、間違っても話の腰を折ったりせず、まずは話し手の体験を共有していくのです。
こうした聴き方は、その後に続く支援の基礎になります。何にしても基礎固め基礎工事は大切ですよね。入念さがその後に違いを生じさせます。
相槌としては「そんなことがあったんだね。」「そう思ったんだね。」位で十分です。まだ、肯定も否定もしていません。
共感・同感・同情の違い
しかし分かってはいても、そうした短い返しで止めることができないこともあります。そしてつい、「それよく分かる。私もね…」こんな応答になってしまうかもしれませんが、実はそれ「同感」です。
同感とは
「同感」とは、相手の体験を自分の体験を尺度に測ることから生まれるきもちです。万が一「私もね…」のあとに話された体験談に相談者が違和感を感じるなら、ちょっと残念なことになりかねません。
相談の主体は話し手の体験です。聴き手の体験ではありませんよね。しかし現実には「共感」と「同感」がない交ぜになってしまうのは良くあることで、相談業務に従事する方々の中にさえよく見られる光景です。「あ〜、またやってる…」みたいな感じです。
同情とは
「同情」とは、話し手の体験を聴き手の照合枠で判断することから生まれる感情です。照合枠とは簡単に言えば、その人の考え方、感じ方、判断、の基準となる内的な枠組みです。誰でも持っています。
例えば、「仕事辞めました。」という相談者に「そうですか。それは大変でしたね。」と聴き手が親身に返すとします。でも、「辞めた=仕事・職場で何やら良からぬことがあった」という聴き手の照合枠が透けて見えませんか?相談者がそれを感じ取ったなら、ハズレでもアタリでも、その後の話し合いの進展に暗い影を落とします。話し手の内には聴き手の枠組みにはめられることへの懸念が生じるからです。
「同感」「同情」はいずれも、主体がだんだん聴き手自身に移りはじめている兆しです。
共感とは
では「共感」とは何でしょうか?来談者中心療法を世に知らしめた1940年代のアメリカの臨床心理学者、カールロジャースの提唱が有名ですが、私はロジャリアンではないので、詳しいことはググってみてください。
平たく言えば、「相談者の話を聴いた後には何かをしよう、しなければいけない。そのために今…」といった構えを脇に置いて聴くことです。相談者の体験に集中し、云わば追体験しようとの想いで聴くことです。
そうすれば相談者の内的な体験(実際の外的体験より深い)に触れることができ、相談者も共に感じてもらえたという感慨を得、自ら次のステージに進んでいけます。
自力で乗り越えようと決意するかもしれませんし、聴き手のアドバイスを進んで求め受け入れていくかもしれません。
ただ、「共感」はテクニックではありません。取って付けた演技ではないのです。むしろ対人関係における普段からの心掛けによって身に付く、一種の感性です。心掛け次第で誰でも磨くことのできる感性です。
共感と身体言語
ところで、聴き手が共感しているときに示す挙動があります。その挙動は聴き手自身に更なる共感を促す力も持っています。一体どんな挙動でしょうか?ヒントはこの投稿のトップ画像の右側に座っている聴き手にあります。
それともう一つ。左側の相談者は、どうしてうつむいているのでしょうか?あなたはどう解釈しますか?ここに、見落とされがちな問題解決のカギがあります。
詳しくは次回の投稿でご説明いたしますね。